創部22年で悲願の全国制覇
今春の選抜高校野球大会優勝
健大高崎(群馬)が今春の選抜高校野球大会で初優勝を果たした。2002年の創部から22年、悲願の全国制覇を果たした青栁博文監督の“軌跡”を紐解く。
■最初のミーティングで6人が退部
健大高崎野球部は、学校男女共学化がスタートした2001年に、生徒有志によって同好会として立ち上がったのが始まり。青栁監督は2002年に健大高崎に教員として着任し、野球部強化を託された。最初のミーティングに参加した部員は、前年度から活動していた新2年生20人。名門・前橋商時代に甲子園出場を経験した青栁監督は「やるからには本気で甲子園を目指す」と宣言し、生徒たちに頭髪を“丸刈り”にするように伝えた。その瞬間、6人が退部を申し出て教室から去ったという。新規参入となったチームは2002年秋大会で公式戦初勝利を挙げたが、その直後に選手たちの多くが練習をボイコット。青栁監督がグラウンドに出てくると、練習場にいたのは主将と1年生部員の二人だけ。約1カ月、監督を含めて3人での練習が続いたという。それでも青栁監督は弱音を吐かなかった。
■「不如人和」と「機動破壊」
チームには、ふたつの揺るぎない指針がある。一つは2005年から採用する「不如人和(ふにょじんわ)」。「天の時は地の利に如かず地の利は人の和に如かず」という孟子の言葉からの引用で、時や地の利は人の和にはかなわないという教えで、団結の重要性を説く。もう一つは高校野球界に大きなインパクトを与えた「機動破壊」だ。2010年夏の県大会で敗れたあとに、機動力を生かした戦いへ移行していく。打力に加えて隙をついた果敢な走塁を志すことで相手に脅威を与えた。「不如人和」を部訓とし、「機動破壊」を戦術スローガンとした。ふたつの武器を持った健大高崎は2012年に選抜ベスト4へ進出し全国強豪と呼ばれるようになった。「『不如人和』と『機動破壊』の両軸によってチームが進化していった。『機動破壊』を掲げた当初は盗塁数を意識していたが、その時代は終わった。盗塁数ではなく、走力で相手にプレッシャーを与えて、勝負所で走塁を絡めて得点を奪っていく。全国で勝つには、『走』だけではだめ。『走攻守』すべてで日本一にならなければいけない」
■7度目の挑戦で栄冠つかむ
今春の選抜は、チームにとって7度目の挑戦。1回戦の学法石川戦から、準決勝・星稜戦、決勝・報徳学園戦までの5試合は、チームが経験してきたすべてが体現されていた。そして、チームは頂点に立った。青栁監督は「22年前に野球部が創部して多くの人たちの支援によって成長することができた。野球部を作った初代メンバーをはじめたくさんのOBの顔が浮かんで涙がこぼれた。自分ひとりでは成し遂げることはできないので、ここまで支えてくれた人に対して感謝しかない。『高崎から日本一』という言葉を掲げて努力してきたので本当にうれしい」と語った。
■「夢、叶うまで挑戦」
2003年夏、野球部を立ち上げた一期生が引退するとき、青栁監督は部員たちの手で胴上げされた。指揮官は生徒たちに向けて「みんながいなければ健大高崎野球部は存在しなかった。ここまで自分についてきてくれてありがとう。みんなの努力を忘れずに、将来甲子園で優勝したい」と涙ながらに話したという。あれから21年、青栁監督は選抜を制して、生徒たちの手によって甲子園で宙を待った。健大高崎のグラウンドには「夢、叶うまで挑戦」という横断幕が掲げられている。夢を掲げて、本気で夢を追い続けた指揮官は、就任22年で全国制覇を成し遂げた。