【レジェンドインタビュー】与田剛(元中日、日本ハム)

情熱がすべてを支えてくれた
最速157キロの元日本記録保持ストッパー
与田 剛 (現NHK解説者=元中日、日本ハム)

プロ1年目のルーキーイヤーに31セーブを挙げた豪腕ストッパー与田剛氏。その年には当時の日本記録となる157キロをマークした。現役引退後には中日で監督を務め現在は解説者として活躍するレジェンドが高校球児にメッセージを送る。

私には野球しかなかった

―野球を始めたのは?
「幼いときから家では父とキャッチボールをしていたのですが、学校の休み時間にカラーボールで三角ベースをしていたのが僕の野球の原点です。本格的に始めたのは小学校4年生です。学校のクラブに入って仲間と一緒に野球を楽しみました。あの楽しさがあったから野球が大好きになりました。中学時代も遊びの延長で、試合前だけ真剣でしたね(笑)」

―高校は木更津中央(現在は木更津総合)へ進学します。
「甲子園に行きたい、プロ野球選手になりたいという気持ちが強く、当時の公立強豪校を受験しました。ただ、野球推薦で取ってもらえる選手ではなかったので合格できずに木更津中央高校にお世話になりました」

―当時の木更津中央の状況は?
「今でこそ全国強豪ですが、私の時代は県ベスト8、16レベルのチームでした。ただ練習は1年間ほぼ休みなくやっていました。私は1年生の春からベンチ入りさせてもらいましたが、なかなか成長せずに悶々とした日々を過ごしていました。質は別として、量だけは強豪校に負けていなかったと思います。4月には100人の新入部員がいたのですが1週間で30人くらいになっていました(笑)。うまくいかないことがほとんどでしたが、私を支えたのは仲間の存在と情熱だけでした」

―高校時代の転機は?
「高校2年生の新チームになって、地域の進学校と対戦して負けてしまいました。監督から怒られましたし、エースとして情けなかったです。あの試合をきっかけに、自分の奢りや油断が消えたと思います」

―3年生の夏の結果は?
「ピッチャーとしては一人相撲になってしまい、チームは4回戦(32強)で負けてしまいました。私に力があれば、仲間をもっと高い場所へ連れていくことができたのですが力不足でした。結果は出なかったのですが、ピッチャーバイブルの本を擦り切れるまで読んで研究を重ねました。あの時の経験が自分の糧になったと考えています」

厳しさの定義とは?

―高校時代の厳しい環境が与田さんを育てたのですね?
「『厳しさ』の定義は人それぞれだと思います。練習そのものの場合もありますし、何も言わずに戦力外にすることが厳しいと感じる人もいます。中学、高校、大学は戦力外はありませんが、プロの世界は突然“クビ”になってしまいます。高校時代は練習が多かったですが、厳しいとは感じませんでした。自分が何を目指すかによって厳しさは変わっていきます。自分は野球が好きでプロを目指していたので、むしろありがたいと考えていました」

―木更津中央から亜細亜大へ進学しました。
「どこからも声が掛からない中で、監督に相談をして亜細亜大を紹介してもらいました。当時は日本一厳しいと言われている大学だったのですが、そこに身を置いて野球と向き合いたかった。自力だけではダメだと感じたので、他力に助けを求めていました。それでダメであれば、自分の中であきらめがつくと思いました」

―亜細亜大での4年間は?
「ハンパなかったです(笑)。寮生活で先輩との上下関係がある中で、自分の甘さがすべて払拭されました。楽な道に逃げることはできましたが、逃げたら野球の道は終わると思いました。自分の立ち位置が分かっていたので、どんな状況でも食らいついていきました。野球がなくなるのは怖かったですし、プロになりたいという気持ちだけが自分の情熱でした。大学時代は1勝しかできませんでしたが、その情熱だけは持ち続けました」

―大学卒業後は、NTT東京へ進みます。
「大学時代も何も実績がない選手だったのですが、まだあきらめたくなかったのです。NTT東京にお世話になることになって1年目はまったくダメでした。ただ2年目になって、投げるボールが変わってきたのです。不思議な感覚だったのですが、パズルのピースがハマるようにボールが走るようになっていきました。当時の先輩キャッチャーが驚くようなボールだったようで、チームメイトがブルペンに駆けつけてきて、私の投球を見てくれました。その晩は、イメージを残すため夜中までシャドーピッチングをしていました。それから野茂英雄さんや潮崎哲也さんと共に五輪日本代表に選ばれました」

―プロに行けた理由は?
「何歳のときの、この練習、あの試合とかではなくて、24歳までの小さな練習の積み重ねがプロへとつながっていきました。18、20歳の練習がダメだったわけではなく、それが自分の引き出しに入っていて、24歳のときに引き出しを開けたら、役立つツールになっていたという印象です。その時にうまくいかなくてもチャレンジしたことは失敗ではありません。やり続けることで成功の引き出しを開けることができると思います」

―高校球児へメッセージをお願いします。
「まずは、自分でやってみようということです。今の時代、インターネットを見れば、あらゆる情報が見られます。『このやり方は失敗』と書いてあるケースもあると思います。ただ、それは自分の経験ではありません。自分でやってみて考えることが大切。私のように、多くの経験を積み重ねて、レベルアップする可能性もあります。まずは自分で考えて行動をすること。そして一度で成果が出なくてもあきらめるのでなく、何度もチャレンジすること。情熱があれば継続できるはずです。自分の力で成功をつかみ取って欲しいと思います」

与田 剛(よだ つよし)1965年福岡県北九州市生まれ、千葉県育ち。木更津総合高―亜細亜大―NTT東京。1989年のドラフトで中日から1位指名を受けて入団。ルーキーイヤーに31セーブを挙げて新人王獲得。現役引退後は中日監督を務め現在はNHK解説者。

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