【レジェンドインタビュー】セ・リーグ年間最多盗塁記録の「青い稲妻」 松本匡史(元巨人)

セ・リーグ年間最多盗塁記録の「青い稲妻」

松本匡史  MATSUMOTO TADASHI

1954年8月8日兵庫県生まれ。

報徳学園―早稲田大―巨人(1977〜1987年)。

走攻守の三拍子揃ったスピードスター。

「青い稲妻」の愛称でセ・リーグを席巻した。

1982、1983年に盗塁王。プロ野球解説者。

「人生のチャンスで盗塁を決めてほしい」

1982、1983年の盗塁王となり、83年の年間76盗塁はセ・リーグ記録。

「青い稲妻」の愛称で果敢な盗塁と打撃をみせた俊足スイッチヒッターが高校時代を振り返る。

■中学まではキャッチャーで4番

―高校時代を振り返って思い出すのは?

「報徳学園中等部ではキャッチャーをやっていました。高校に上がってもキャッチャーで勝負したのですがポジション争いで負けて、いろんなポジションを試すことになりました。1年生の夏まではまったく試合に出られずにくすぶっていました」

―外野手になったのは?

「1年生の秋です。チームはそのまま勝ち上がって、春の選抜出場を決めていたのですが、その年のお正月に家庭の問題とかいろいろなことが重なりまして、10日間くらい家出をしてしました。友人の家などを転々とする中で、監督に連れ戻されました。そして、家族と監督と話し合って野球を続けることになりました。監督も状況を理解してくれまして、結果的に2年生春・夏に甲子園に行くことができました」

―野球をやめていた可能性もあったのですか?

不思議なことに野球への思いはずっと持っていました。家出をしたときは、もう高校には戻れないと思っていましたので、友人と一緒に新聞配達のアルバイトをしながらプロ野球選手を目指すつもりでした。実際に新聞配達のお店に行ったのですが、そこでお店の人が家族に連絡してくれて、“家出”が終わりました」

■2年生の春・夏に甲子園出場

―野球部に戻ったあとに春・選抜、夏・甲子園に出場しました。

「1回戦で愛知県の東邦と対戦しました。1回表に1点先制したのですがその裏にノーヒットで11点を取られてしまいました。なんとも言えない思い出が残っています。夏の甲子園は、1回戦で秋田市立に勝って、2回戦で岡山東商に負けました。甲子園の広さは印象に残っていますが、結果的には良い戦いはできませんでした」

―3年生はどんな状況だったのでしょうか?

「2年生の秋から、キャプテンになり内野手に転向しました。秋季大会の兵庫県大会で優勝して近畿大会へ行ったのですが、初戦で天理にコールド負けになってしました。3年生の夏は、準決勝で東洋大姫路に敗れて、最後の夏が終わってしまいました。それまで東洋大姫路には負けたことはなかったのですが、気の緩みが結果につながってしまいました。甲子園に行けるチャンスがありながら、負けてしまったことに後悔があります」

―高校時代から盗塁が多かったのですか?

「中学時代までは右のホームランバッターで、関西では『第2の田淵(幸一)』とも言われていました。バッティングに自信がありましたので盗塁はほとんどしませんでした。高校3年生になって、チームに足の速い選手がいて、一緒に練習をするうちに盗塁も意識するようになりました」

―高校時代からプロを意識したのでしょうか?

「プロには行きたかったのですが、高校時代に早慶戦を見て、六大学の華やかな舞台でプレーしたいと思いました。コーチが家庭教師をやってくれて、早稲田大に合格することができました」

■早大からドラフト5位で巨人へ

―早大ではどんな選手だったのでしょうか?

「1年生のときは球拾いで、2年生になったときに石山建一監督になり、たまたま私のプレーをみて『サードをやってみろ』と言ってくれました。そのまま試合で起用してくれることになって1番打者としてレギュラーになって盗塁記録も作りました。ただ、左肩を脱臼する不運があり、それが癖になってしまい、そこで一度はプロをあきらめました」

―プロに入った経緯は?

「プロは難しいと思っていましたので、就職先が決まっていました。社会人野球で日本生命へ行く予定でしたが、ドラフト会議で巨人から5位で指名されて入団することになりました」

―プロ入り後はどんな状況だったのでしょうか?

「長島茂雄監督のもとで1年目から1軍キャンプに帯同させてもらっていて、開幕時も1軍に残れて、代走や守備要員で使ってもらっていました。夏場にスタメン起用のチャンスが巡ってきまして、若手だったので早朝に打撃練習をしました。そのときに再び脱臼してしまい、1年目は終わってしまいました」

―左肩の手術をしたと聞いています。

「3年目の春に、2軍でセカンドを守っていたときにまた脱臼したんです。バッティングでも守備でも肩が抜けてしまったので、長島監督たちと相談してそのまま手術しました。半年以上リハビリをして秋にグラウンドへ戻ったのですが、そのときに伝説の『伊東キャンプ』(長島監督が若手を鍛えたキャンプ)が実施されました」

―「伊東キャンプ」では何があったのでしょうか?

「長島監督から、左打席の練習をしてスイッチヒッターになるように言われました。選手としては、もうあとがなかったので覚悟を決めて必死で取り組みました。長島監督からは『足の速さを生かすために左でゴロを打て』と教えてもらい、打撃ケージでひたすらゴロを打って、最初のバウンドをホームベースに当てる練習をしました。最初は一度も当たらなかったです。高校時代は田淵2世と言われていたので、プライドを捨てて、左打席での練習に打ち込みました」

―左打席の練習で取り組んだことは?

「左手で箸を持つようにして豆をつかむ訓練をしました。左手を使うことで、左利きの感覚が身につけばと思って、いろいろなことにトライしました。足を生かすためにはバットに当てなければいけませんし、盗塁するには出塁しなければなりません。生き残るために必死でした」

―高校野球でも「機動力」がクローズアップされています。

「相手にプレッシャーをかけるという意味では大切な戦略だと思います。『足にはスランプがない』と言われますが、心理的な面ではスランプがあります。盗塁は、相手がいる動作なので、相手との駆け引きがすべてになってくると思います。大切なのは精神面。盗塁は自分からスタートを切るので強いメンタルが必要です。ベースランニングの技術だけではなく、精神面と判断力の強化も必要になってきます」

―盗塁の秘訣は?

「盗塁のサインが出たとしても、タイミングを図ってスタートを切るのは選手自身で、失敗すればその責任を負わなければなりません。足を武器とするのであれば、失敗は許されません。相手に研究された中で盗塁を決めるのがプロだと思います」

―盗塁について高校球児に伝えたいことは?

「失敗したときのことを考えたら盗塁はできません。とにかく失敗を恐れずにスタートを切ることが大切になります。子どもたちに伝えたいことは『失敗を恐れずに走れ』ということです。難しい状況でこそ、走る意味がありますし、相手にプレッシャーを与えることができます。難しい状況を経験することで、盗塁のタイミングをつかめるのだと思います」

―高校生に伝えたいことは?

「まずは野球を好きになってほしいです。昔のように押し付けの練習ではなく、いまは選手それぞれが考えて工夫を加えることができます。野球をより好きになれば、練習が楽しくなり、効果が上がっていきます。プロ野球は選手の生活がかかっていますが、高校野球はプロではありません。自分の力を伸ばすために、一番良い環境を自分で選んで、その環境で精一杯努力してほしいと思います。そして、チャンスがあれば積極的に盗塁をしてほしい。それが人生に生きてくると考えています」

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