プロ通算134勝、元祖横浜のエース
遠藤一彦(横浜大洋=現DeNA)
「順番待ちではなく、自分から行動せよ」
横浜大洋ホエールズ(現DeNA)のエースとして2度の最多勝を獲得、プロ通算134勝を挙げた遠藤一彦氏。
元祖・横浜のレジェンドが球児にメッセージを送る。
■甲子園に行ければ野球は辞めていた
-高校(学法石川)を選んだ理由は?
「中学時代に学法石川の柳沢泰典監督が声をかけてくれました。
実家から離れての下宿生活になりましたが、4月下旬に胃潰瘍になってしまいました(苦笑)。
いま思うと、環境の違いでストレスがあったのかなと思います」
-試合にはいつから出場したのでしょうか?
「1年生の秋からです。
柳沢監督が、私の“脚力”を認めてくれていまして、体は細かったのですが、4番・センターで起用してもらっていました。
2年生の秋にチーム事情でたまたまピッチャーになりましたが、強いこだわりがあったわけではなく、試合に出られるのであれば、どのポジションでもやるつもりでした」
-当時から強豪だったのでしょうか?
「もともとは無名高校でしたが、柳沢監督が1968年に就任しチーム強化を図っていました。
私たちが3年生のときは55回記念大会で、この大会から甲子園出場が各県1校になりました。
学校として初の甲子園を目指して、選手に声をかけていたようです」
-甲子園にはたどり着いたのでしょうか?
「高校2年生のときは東北大会決勝で東北高に敗れて、高校3年生の福島大会でも決勝戦で負けて甲子園には行けませんでした。
3年生のときはピッチャーとして大会に入り、連戦となった決勝戦前に監督から『連戦だから別のピッチャーで行く』と言われましたが、投げないで負ければ後悔が残ると思ったので『自分に投げさせてください』と直訴してマウンドに立ちました。
結果は1対2でした」
-2年連続で甲子園まであと一歩だったのですね?
「甲子園が目の前にあったので、やりきったというよりも悔いが残りました。
将来は建築家になりたいと思っていましたので甲子園に出場したら野球は辞めるつもりでしたが、甲子園に行けなかったことで、大学で続けたいと思うようになっていきました。
そして東海大へ進学しました」
-大学ではどんな気持ちで?
「甲子園には行けなかったので大学の最高峰である明治神宮大会でプレーしたいという思いでやっていました。
プロ?大学3年生のときには大学選手権で優勝させてもらっていましたが、自分自身、プロに行けるとは一度も思っていなかったので、まったく意識はしていませんでした」
-ドラフト3位指名当日は?
「すでに社会人野球の就職先も決まっていましたし、現実的ではありませんでした。
ドラフト指名されるとは思っていませんでしたが、監督から選手寮で待機しておけと言われたので、待っていました。
そうしたら3位指名の連絡が入り、驚きました」
-社会人かプロかの選択は?
「社会人野球の担当者から生涯年俸の話を聞かせていただき、プロで短期間で終わるなら、社会人の方がいいと考えていました。
実家に戻って家族に相談したところ、母親は社会人を勧めてくれましたが、叔父が『ここまで野球でやってきたのだから(プロで)勝負した方がいい』とアドバイスをくれて決断しました。
プロに入ってからは、社会人の生涯年棒を稼がなければという思いでした(笑)」
-プロで活躍できた理由は?
「私には筋力、腕力などズバ抜けた能力があったわけではないですが、バネというか脚力だけは自信がありました。
高校入学のときに、監督がそこを評価してくれなかったらプロ野球でプレーすることはなかったと思います。
プロに入ってからも、全体練習後はランニングなど足腰のトレーニングは欠かさずにやっていました」
■ピッチャーに必要なのは制球力
-ピッチャーとして大事なことは?
「コントロールだと思います。
いまは球速重視になっている傾向もありますが、ストライクが投げられなければ試合になりません。
私の自論ですが、体が完成していない高校生に強い負荷をかけて重い筋肉をつけることはあまり良くないと思います。
バランスの良いトレーニングが必要だと考えています」
-野球塾で子どもたちを指導しています。
「小学生から中学3年生までのピッチャーを教えています。
みんな速いボールを投げたがるのですが『ストライクが入らなかったらピッチャーはできない』とだけ伝えています。
そのためにどうするかをアドバイスしています。
ストライクを取れるフォームが、その選手に合った投げ方のベースだと考えています。
フォームのベースは変えることなく、最小限のヒントを与えています。
球速を5キロ上げるよりも、ボール1個分のコントロールが重要です」
-いま高校野球は投手の「球数制限」の議論が起きています。
「甲子園では一人のピッチャーの負担が多くなるケースもあり、ある程度は仕方ないと思います。
ただ、球数制限を導入した場合、私学強豪以外のチームが、何枚もの投手を揃えられるかという問題もあります。
制限を設けた場合は、人数の多い私学強豪が有利になってしまうでしょう。
球数制限だけの問題ではなく、全体をみての議論が必要です。
私自身は、ある程度の球数を投げてもきちんとした投げ方ができていれば問題は少ないと考えています」
-少年野球の野球指導については?
「少年野球の現場で選手を怒鳴りつけているシーンを目にします。
野球を取り巻く環境が変わっていく中で、指導者が学んでいかなければなりません。
指導者は自分たちの野球経験の範疇で教えているケースが多いですが、サッカーのようにコーチのライセンス制度や指導育成のシステムが必要だと感じています」
-高校球児にメッセージをお願いします。
「まずは3年間、しっかりと続けること。
続けることによって見えてくるものが必ずあります。
いまの子どもたちは控えめな子も多いですが、“順番待ち”ではなく自分からの意志で動いて、目標へ向かって努力してほしいと思います」
【プロフィール】
1955年福島県生まれ。
学法石川-東海大。
大学卒業後にドラフト3位で横浜大洋ホエールズ(現DeNA)に入団。
最多勝を2度獲得するなどプロ通算134勝を挙げた。
1992年現役引退。
現在は横浜市内で子どもたちに野球指導している。