【加藤学園 野球部】「創部24年、春夏通じて初甲子園」

届いた選抜切符! チームに広がる歓喜の輪。

一つのボールを追う練習でチームに一体感

加藤学園が創部24年目で甲子園初出場を決めた。

東海大会ベスト4(出場枠2)で当初は出場の可能性が低かったが、東海大会優勝・中京大中京(愛知)が明治神宮大会で優勝。

出場枠が「3枠」となり、3枚目の切符をつかみ取った。

(取材・栗山司/撮影・山下大輔)

■ 創部24年目で初の聖地へ

吉報は午後3時17分に届いた。

加藤瑠美子校長は、日本高野連から電話を受けると、「ありがたくお受けいたします」と涙を流した。

創部24年目での甲子園出場。

その後、加藤校長がグラウンドで待機する選手に「おめでとう。選抜出場が決まりました」と伝えた瞬間、一斉に歓喜の輪が広がった。

ナインから胴上げされた米山学監督は「今はホッとしています。

甲子園でも加藤学園らしさを出して、チーム力で思い切り暴れてきたいと思います」と抱負を語った。

■ 粘り強さで勝ち上がる

昨秋は東部大会準決勝で沼津東に敗退。

そこからチームが大きく生まれ変わった。

敗退後、いかなる練習もボール1つで行った。

加藤学園のグラウンドのネット裏は林になっているが、ボールがその中に入ると、全員で探しにいったという。

「個の力に頼るのではなく、一つのボールを大切にすることで集中力を大事にしたかった」と米山監督。

県大会では、練習で培った集中力を生かし、粘り強く勝ち上がる。

県大会の2回戦で甲子園常連の常葉大菊川を撃破すると、準々決勝では優勝候補の静岡にサヨナラ勝ちを飾る。

勝てば東海大会が決まる準決勝の相手は静岡商。

序盤は最速148キロ左腕の髙田琢登の快速球に苦しむ。

それでも、最後まで諦めなかった。

0対2で迎えた8回、3番・大村善将(2年=内野手)が2死一・二塁からレフトスタンドに本塁打。

逆転勝ちを飾った。

東海大会でも勢いが止まらなかった。

初戦は大垣西に6対1で勝利。

近大高専との2回戦は延長10回に重盗で勝利をもぎ取って、創部以来初の東海大会準決勝進出を決めた。

だが、準決勝は力負けする。

県岐阜商相手に3点を先制するもサヨナラ負け。

東海地区の選抜出場枠は2枠のため、出場は難しい状況だと思われていた。

そんな中、中京大中京が明治神宮大会で優勝。

出場枠が3枠となり、甲子園出場が決まった。

「(明治神宮大会後は)選抜があると信じ、緊張感を持って練習ができていた」と米山監督は話す。

■ 「チーム力」で旋風を起こす!

選抜出場の発表を受け、米山監督、山田泰基部長、勝又友則主将(2年=内野手)の胴上げに続き、宙に舞ったのはエース右腕の肥沼竣(2年)だった。

中学時代は4番手投手。

高校入学後、体重の増加とともに球速が上がり、最速は139キロまで上がった。

昨秋は東部大会3位決定戦から東海大会準決勝まで9試合連続完投。

抜群の制球力を武器に、大崩れすることがなかった。

普段は大人しい性格だが、この日ばかりは「今までの人生で一番嬉しい」と満面の笑みを見せた肥沼。

「甲子園にはレベルの高い投手がたくさんいるので、負けない気持ちだけは持っていきたい」と意気込んだ。

初出場だが、勝又主将は「目標は優勝」と言い切る。

決して突出した選手はいない。

オーダーは、その日の相手や選手の状態によって決まる。

ただ、どんな選手が出場しても、加藤学園のスタイルは変わらない。

個の能力ではなく、全員が一つのボールを追いかける「チーム力」で旋風を巻き起こす。

勝又友則主将(2年=内野手)

「秋は諦めない気持ちを大事にして、全員野球で戦いました。

甲子園でも特別なことをせず、今まで通り、自分たちの野球で臨みます。

ここで満足することなく、全員で優勝を勝ち取りたいと思います」

肥沼 竣(2年=投手)

「今日は選ばれることを信じて待っていました。

甲子園は小さい頃からの夢だったので、とても嬉しいです。

自分だけの力で勝ってきたわけではないので、チーム全員で勝ち進みたいです」


加藤学園高等学校

【学校紹介】
住 所:静岡県沼津市大岡自由ヶ丘1979
創 立:1926年
甲子園:今春初出場
1926年に創設の沼津淑徳女学院が前身。

沼津女子高校などに名称を変え、77年から現校名となる。

校訓を「至誠」とし、人間にとって最も大切な真心を尽くす事を大切にしている。

野球部は96年に創部。

OBには高橋朋己(現西武)がいる。

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