

健大高崎
健大高崎 2026年夏甲子園 準優勝
“谷間の世代”だったチームが、なぜ決勝まで辿り着いたのか?
健大高崎が今夏の全国高等学校野球選手権で初めて決勝へ進出、準優勝となった。この世代はスター選手不在。“谷間の世代”と呼ばれたチームが、なぜ夏の甲子園で快進撃をみせたのか。青栁博文監督の采配やチームの歴史から、準優勝まで躍進した要因を読み取っていく。
(記事・伊藤寿学)=2026年9月掲載=
■春先のどん底から全国準優勝
「力のない世代だった。この夏も1回戦で勝てるかどうかだと思っていた」。青栁監督はチーム始動からの半年をこう振り返る。石田雄星主将を軸にしたチームだが、昨秋季県大会では準々決勝で桐生第一に敗れ、2024年春から続いていた甲子園連続出場が4で止まった。
春季県大会前には3年生の自覚を促すため、1・2年生を外してオープン戦を実施していたが、3月下旬には神奈川強豪に2桁得点を許しての完敗。石田主将は「野球人生でチームとしてここまで苦しんだことはなかった」と明かす。どん底にいたチームが、春から夏に急激な進化を遂げた。
■「選抜型」から「夏に勝つチームへ」
健大高崎は「選抜型」のチームだった。2002年創部。10年目の2011年夏に甲子園初出場。翌2012年春には選抜初出場でベスト4へ進出した。2014年夏、2015年春には「機動破壊」の攻撃スローガンを引っ提げて聖地で大暴れ。
2大会連続でベスト8となった。全国制覇は“遠くない場所”に思われたが、そこから8年間は夏甲子園に出場できなかった。その間に選抜にはコンスタントに出場。2024年春には、箱山遥人主将(現社会人・トヨタ)、2年生ダブルエース石垣元気、佐藤龍月らを擁して選抜全国制覇を成し遂げた。チームにとって初の日本一だった。
■過去の戦いから学んだ戦術
2024年夏に9年ぶりの夏甲子園出場を果たすと春夏連続優勝を狙ったが、群馬大会後にエース佐藤が左肘を負傷し戦線離脱(のちにトミージョン手術)するショッキングなアクシデントがあった。エース不在で甲子園に臨んだが2回戦で敗れた。
エース負傷がその後の健大高崎を大きく変えていくことになった。2025年春は、石垣元気、下重賢信の投手陣を軸に、選抜ベスト4の戦果を残した。トミージョン手術から復活した佐藤がブルペンに戻った同年夏の甲子園では、優勝候補の一角に挙げられながらも投手継投起用がハマらずに初戦で京都国際に敗れた。「夏に勝つチームになっていかなければいけない」(青栁監督)。
■発展途上のチームが甲子園へ
2026年のチームは選抜出場を逃したことによって、夏を見据えたプランニングが可能となった。春季県大会では伸び盛りの1・2年生と、崖っぷちの3年生を融合。課題だった投手陣は、2年生の石垣聡志、北田莉玖に加えて、佐藤麻恩、石田翔大ら3年生らが球速を伸ばした。
複数投手を起用しながらの「徹底した継投策」。夏の群馬大会では苦戦が続いたが、準決勝・前橋育英戦では佐藤が先発し、石垣へつないで2対0。決勝・前橋商戦では北田から石垣、石田への継投で5対4で勝利して、夏甲子園切符をつかみ取った。
甲子園出場こそ決めたが、エース格・石垣が不安定になるなど、投手陣は未成熟だった。他県では、選抜優勝の大阪桐蔭、ベスト4の専大松戸、ベスト8の山梨学院などが夏地方大会で次々と敗れたが、健大高崎は夏切符をつかんだことで進化のチャンスを得た。
■貫いた「複数投手のタスキリレー」
甲子園1回戦・八幡商戦では、石垣が9回1失点で完投勝利し、チームは活気づいた。2回戦・東海大甲府戦では佐藤、3回戦・佐野日大戦では1年生・大橋叡刀が先発し継投リレーで勝ち切った。準々決勝・有明戦は石垣、準決勝・天理戦は佐藤、そして決勝・智弁和歌山戦は再び石垣が先発のマウンドに立った。
決勝戦は石垣から北田、石田へつなぐ「健大高崎・新勝利の方程式」を迷うことなく実践したが、1点差で惜しくも敗れた。決勝では4失点を喫したが、準決勝までの5試合での失点はわずかに2点。準優勝という結果に終わったものの、一人の投手に負担をかけることなく、複数投手でのタスキリレーで最小失点に抑えて勝ち上がった。
夏の全国制覇は、次世代のチームへの“宿題”。健大高崎は、この夏の経験を糧にして、さらに強くなる。
(記事・伊藤寿学)






