【東亜学園 野球部】「新たなスタイル」

コロナ禍によって3カ月半の活動停止となった東東京の名門・東亜学園。

選手たちは、野球ができる環境に感謝しながら、この時代に適応する新たなスタイルを追求していく。

2020年8月号掲載

■ 32年前に消えた「夏」

いまから32年前の1988年、東亜学園から「夏」が消えた。

1987年にエース川島堅(元広島)を擁して2年連続の夏甲子園出場を決めたが、直後に3年生部員の下級生への不祥事が発覚。

3年生は引退したが、残った2年生に「1年間の出場停止処分」が下された。

2年生たちは、年間を通じてプレーする場を失い、「最後の夏」の舞台に立つことも許されなかった。

目標を失った選手たちだったが早期引退することなく、下級生のサポートを懸命に続けた。

そして「これからの後輩には、自分たちの分まで戦ってほしい」という言葉を残して卒業した。

学園は、そんな生徒たちのために盛大な壮行会を準備し感謝を伝えたという。

先輩たちの思いを背負った後輩たちは、翌1989年に夏甲子園出場を果たした。

■ 3カ月半ぶりの練習再開


東亜学園野球部は今年2月下旬からテスト休みに入っていたが、その最中にコロナ感染拡大防止策として休校となり、野球部の活動も完全に止まった。

武田朝彦監督と選手たちは週2回、ウェブ会議システムでミーティングを行い、野球を学んだ。

選手たちは自主練の活動記録を指揮官にSNSで送信し、指導を仰いだ。

甲子園大会の中止が決定した5月20日には、武田監督と3年生がウェブ会議でミーティングを実施、その後にウェブでの個人面談を実施したという。

甲子園を目指して努力してきた選手たちの無念の気持ちは想像に難くない。

チームは悲しみを乗り越えて6月下旬から時間限定での練習を再開した。

当面は、マスク着用。選手たちは、ブルーのマスクを装着しグラウンドに立った。

武田監督は「時間限定やマスク着用などこれまでとは違いますが、そこにあらがっても仕方がない。

新しいスタイルを受け入れて、その中でベストを尽くすことが求められていると思っています」と話す。

■ 1日1日を大切に独自大会へ


特別な夏へ始動した東亜学園は、強肩巧打の外野手・阿部敬太主将(3年)、都屈指の大型捕手・尾関翔来(3年)、攻守の要・高橋駿一(3年=内野手)らが中心となり、チームを力強く牽引している。

投手陣は、深堀力斗(2年)、阿部太一朗(2年)、鈴木隆之介(3年)、高橋永太郎
(3年)、山野雅季(3年)がマウンドを守る。

選手たちは、中断期間に学んだことをグラウンドで体現しつつ、決戦に備える。

阿部主将は「秋に2回戦で負けてしまって、春のために準備していたときに練習ができなくなってしまいました。

限られた時間ですが、1日1日を大切にして野球に向き合いたいと思います。

甲子園大会はなくなりましたが独自大会があるので、東東京で一番になりたい」と力を込める。

武田監督は「独自大会は甲子園の代わりではなく、新しい大会と捉えています。

この環境でどれだけ戦えるか。新しい戦いをみせたいと思っています」と大会へ向かう。

独自大会前、マスク、消毒液、空気清浄機がOB会から届いた。

OB会には、32年前に不遇をかこった選手たちもいるという。

32年前と同じように「甲子園」は消えたが、いまのチームには新しい「夏」がある。

東亜学園の選手たちは、グラウンドに立てることに感謝しながらトーナメントを駆け上がる。

東亜学園高等学校

【学校紹介】
住 所:東京都中野区上高田5-44-3
創 立:1923年
甲子園:夏3回
野球部は1986年に夏甲子園初出場。1987年夏には、川島堅(元広島)を軸に甲子園4強に進出。1989年以来、甲子園から遠ざかるが2016年夏の東東京大会では準優勝、2018年秋ベスト4。甲子園は再び近づいている。

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